ハーモニカを吹くゾウ 作: 大和 恵弘
>
サナンは今日も、チャーン・ウタイのところにやってきました。左手には小さなハーモニカを持ち、右手には三〇センチメートルくらいに切ったに二〇本ほどのサトウキビの束を持っています。
「チャーン・ウタイ、元気かい?」
サナンは少し大きな声で、丸太の柵の外から呼び掛けました。その声を聞くとウタイは、長い鼻を上げて、嬉しそうに、でも前脚を片方、少しかばうようにして歩きながら、サナンのそばに寄ってきました。そして、差し出されたサトウキビを鼻の先で巻くようにして受け取ると、おいしそうに食べはじめました。
そうなのです。ウタイというのはゾウ、それもまだこどものゾウなのです。チャーンはタイ語でゾウのことです。ウタイはタイの男の子の名前なのですが、サナンはその子ゾウに、バンコクへ引っ越して行った大の仲よしだった男の子の名前をつけて、そう呼んでいるのです。サナンが持っているハーモニカは、お別れのとき、仲よしのウタイから記念にもらったものです。
サナンが毎日こうして、子ゾウのウタイを訪ねてくるのは、タイ北部のランパーンという街から西へ三〇キロメートルほど行ったところにあるタイ・ゾウ保護センターの入口にいる守衛のおじさんは、もうサナンとは顔なじみなので、いつもニコニコと笑って、サナンを中へ通してくれます。
◇◇◇◇◇◇◇
>
サナンが最初にチャーン・ウタイに出合ったのは、もう半年以上も前のことです。そのときサナンは、お父さんを手伝って、山のふもとの野菜畑にいました。突然、山のほうで「パオーッ」というような、かん高い動物の悲鳴のような声が聞こえました。
「何の声だろう?」
サナンはお父さんに尋ねました。お父さんは、
「ゾウの鳴き声だったかもしれないな。なにかあったのかな」
「父さん、行ってみようよ」
サナンは手にしていた大きな野菜篭を畑に放り出して、声かした山のほうへ、片足を少し引きずりながら走り出しました。サナンは生まれつき、右足が少し不自由なのです。お父さんも鍬を置いて、一緒に走り出しました。
一頭の子ゾウが、山のふもとの崖になったところの凹みに落ちて、もがいていました。凹みは一メートル半くらいの深さなのですが、子ゾウの体よるほんの少し大きいくらいの穴となっているため、子ゾウは体の動きがよくとれないのです。
「これは困ったな。村の人たちを呼んでこなくては。サナン、お前はここで待っていなさい。いいかい、ゾウはまだ子どもだけど、野生のゾウだ。今は気が立っているし、危ないから近よっちゃ駄目だよ」
お父さんはそういって、村の人たちを呼びに走って行きました。
サナンがほんの少し近寄って、凹みの上からのぞいて見ると、子ゾウはお腹を上にして、四本の脚をバタバタさせて、必死にもがいています。ときどき、鼻をふり回すように動かしています。少し赤くなった小さな目には、涙がにじんでいるようでした。そしてまた、「パオーッ」と救けを呼ぶように、高い声を出しました。でも、サナンにはどうしてあげることもできません。
「待ってね。すぐ、みんなで助けてあげるから」
サナンはそう呼びかけました。このままでは、ゾウは疲れてしまうばかりです。
サナンはふと、あることを思いつけました。半ズボンのポケットからハーモニカを取り出し、低い音で、ゆっくりと吹いてみました。サナンはこのときはまだ、曲をちゃんと吹けなかったのですが、ゆっくりとした二拍子で、「プープー、プープー。プープー、プープー。」と吹きました。サナンはハーモニカを吹きながら、心の中で「泣かないで、チャーン。待ってて、チャーン。もうすぐ、もうすぐ、助けてあげる」と、子ゾウに話しかけていました。
ハーモニカを吹きながら、必死にもがいている子ゾウがとても可哀想に思え、涙が出てきました。サナンは涙を流しながら、懸命に吹きました。
しばらくすると、子ゾウは疲れてしまったのか、もがくのをやめて、おとなしくなりました。サナンは子ゾウに「チャーン、大丈夫だよ。もうすぐ、助けてあげるから。おとなしく、待ってるんだよ」と、ゆっくり、ゆっくり、なんべんも、なんべんも、やさしく話かけました。
子ゾウはあの大きな耳をちょっと動かし、サナンのいうことをじっと聞いているようでした。
◇◇◇◇◇◇◇
>
子ゾウを凹みから助け出すのは、とてもたいへんな作業でした。こどもといっても子ゾウの体重は一トンくらいはあります。ゾウ使いのおじいさんも二人きて、二十人以上の大人たちが、子ゾウが落ちた凹みのふちの土を掘り、太いロープとロープで作った綱をゾウの体の下に通し、ゾウを吊り上げるようにして助け出すまでには五時間以上もかかりました。子ゾウはときどき、興奮したように、暴れようとしました。そのたびにサナンは「待ってて、チャーン。待ってて、チャーン。もうすぐ、もうすぐ、助けてあげる」と、ハーモニカを吹くと、ゾウは少し落ち着いて、おとなしくなりました。
ゾウはふつう、十五頭から三〇頭くらいの群れで、ジャングルや草原で生活をしています。群れのリーダーとなるのは雌のゾウです。群れの仲間たちは、こどものゾウがトラやヒョウなどに襲われないように、協同して守ります。この子ゾウはきっと、お母さんたちの群れから離れて、迷子になってしまったのでしょう。年齢は、体の大きさからすると三歳くらいです。
おとなたちは、救けた子ゾウを、安全なところで育てるために、タイ・ゾウ保護センターに連れて行きました。この保護センターは自然の森の中につくられ、広さが六〇〇〇平方キロメートル以上もあります。いま、一〇〇頭以上のゾウたちがここで飼育されています。
タイには現在、約二四〇〇頭の野生のゾウたちがいます。しかし、開発が進み、人間の働くところや住むところが広がるにつれ、反対にゾウたちの住むところがだんだん狭くなり、自由にあちらこちらと動きまわることができなくなってしまった。
こうしてゾウたちが住む場所が限られ、繁殖が衰えたために、ゾウの数はどんどん減ってしまっています。このまま放っておけば、ゾウは絶滅してしまうかもしれません。ですから、タイでは、ゾウたちがなるべく自由に、安全な生活ができる国有林や保護区を設けて、守っているのです。もちろん勝手にゾウを捕まえたり、殺したりすることは禁止されています。
ランパーンのタイ・ゾウ保護センターには、怪我をしたり、病気になったりして弱っていたゾウをたちがつれてこられ、獣医さんたちの手当て受け付けます。迷子になったりした子ゾウたちもいます。つれてこられたゾウたちはみんあ、ここで飼育されます。
元気になったゾウたちは、ちゃんと働くことができるように、材木を運びの仕事のしかたや、人を背中にのせて歩くことや、観光客に見せるいろいろな芸を、ゾウ使いの人たちから教わります。サッカーがうまくなったゾウも、絵を描くことができるようになったゾウもいます。
ゾウは病気や怪我しなければ、六〇歳以上生きられますし、一〇歳ぐらいから五〇歳くらいまでは働けますので、この保護センターで元気を取り戻して、仕事を覚え、よその土地へ行って働いているゾウもたくさんいます。中には芸を覚え、日本のサーカス団で働いているゾウもいます。
村の人たちに救けられた子ゾウは、初めのうちは人を怖がったり、見知らぬほかのゾウたちに怯えたりしました。でも、保護センターの大きな囲いの中で、毎日餌を与えられて暮らすうちに、だんだん慣れて、元気になってきました。ただ、凹みに落ちたときくじいてしまったのか、右の前足を少し痛そうにして歩いています。
◇◇◇◇◇◇◇
>
サナンは六月から、小学校一年生になりました。学校へ通うようになっても毎日、家に帰ってから、子ゾウを訪ねて保護センターにやってきます。お父さんが、子ゾウのために特別に、畑でとってきたサトウキビやバナナを用意しておいてくれることもあります。あるときは、ほかの農家の人からくずリンゴをもらってきてくれました。子ゾウはリンゴ大好きなのです。サナンはそんなお父さんが大好きです。だから、お父さんの畑仕事をよく手伝うようにしています。
ある日サナンは、学校の休み時間に、友だちと鬼ごっこをして遊びました。けれども、サナンはすぐ鬼につかまってしまい、自分が鬼になると、こんどはなかなか友だちをつかまえることができません。それは右足が少し不自由で、走るのが遅いからなのです。友だちたちはそんなサナンを、笑いながらはやしたてました。サナンはくやしがって追いかけましたが、どうしても友だちをつかまえられません。しまいには、泣きべそをかきながら追いかけましたが、だめでした。
その日、サナンは元気なく家に帰ってきました。いつもとちがって、保護センターへ行くのも面倒に思え、なにもしないで、家の中で、ただ寝ころがっていました。そして、「どうしてぼくだけ、走るのが遅いんだろう?どうしてぼくだけ、みんなと同じように走れないんだろう?」と考えていました。
そんなサナンを見て、お母さんはサナンがなにを考えているのかすぐにわかりました。ふだんは明るいサナンが、こんなに元気がないのはきっと、不自由な自分の足のことで悩んでいるにちがいない、と思ったのです。でも、お母さんはサナンに、足のことはなにもいいませんでした。それは、生まれつき足が不自由なサナンが可哀相でならなかったのですが、そんな足が不自由さに負けないで、強く育ってほしかったからです。
「サナン、今日はチャーン・ウタイのところへ行ってあげないの?」
とお母さんはたずねました。サナンは黙ったまま、返事をしませんでした。すると、お母さんはこんなことをいいました。
「きっと、チャーン・ウタイはサナンを待っているわよ。サナンはチャーン・ウタイがあそこにきてからこれまで、雨のふる日も、風の吹く日も、会いに行かない日がなかったじゃないの。サナンはウタイのことが大好きなんだって、みんながいっているわよ。あんなに元気になって、人のいうことをおとなしく聞くようになったのは、サナンとサナンのハーモニカのお陰だって、ゾウ使いのソムラックさんもいっていたわよ」
サナンは考えました。
「チャーン・ウタイが、ぼくのことを好きだって?本当かなぁ?」サナンはもちろん、子ゾウのウタイのことが大好きです。でも、ウタイがサナンのことをそんなに好いていてくれるなんて、思ったことがありませんでした。それに、ハーモニカがチャーン・ウタイの訓練の役に立っているなんて、思ってもみませんでした。
サナンは気をとりなおして、ゆっくりと起き上がり、台所にお父さんが置いてくれたサトウキビの束を手にして、いつものように、保護センターに向かって歩きはじめました。
◇◇◇◇◇◇◇
>
「チャーン・ウタイ、お前は足が痛いんだってね。少しはよくなったかい?」
子ゾウのウタイは、サトウキビを食べ終わっても、サナンのそばに、おとなしくじっと立っていました。サナンはハーモニカを口にあて、ゆっくりと吹きはじめました。それは子ゾウを救けたときのように、ただ「プープー、プープー」というだけのに拍子の音ではありません。プラシットという人が作った『星たちと愛』という曲の中の、「プープーププー、プープーププー」という、ほんの短い一小節でした。
サナンは曲の題名を知りませんでしたが、ある日ラジオから流れてきたのはこのきれいな曲の、一部分だけがいつまでも耳に残って、憶えていたのでした。サナンはなんべんも、なんべんも、くり返し、くり返し、子ゾウに吹いてあげました。子ゾウはちょっと頭をかしげるようにして、じっと聴いていました。
サナンはそれから毎日、毎日、一ヵ月、二ヵ月、いいえ、三ヵ月以上も、その同じ曲を、チャーン・ウタイに聴かせてあげました。
ある日、サナンとチャーン・ウタイのそんなようすを、保護センターの所長さんが見ていました。そして、
「そうだ。ゾウにハーモニカを吹いてもらうことにしよう」
と、ひざを打っていいました。
◇◇◇◇◇◇◇
>
それからまた、半年が過ぎました。タイ・ゾウ保護センターでは、明日からのゾウたちの新しいショウ、ハーモニカ合奏の最後のリハーサルが行われています。一〇頭ゾウたちが一列に並びました。その中には、まだいちばんチビですが、ここにきてから一年がたち、ずいぶん大きくなった子ゾウのウタイの姿もあります。ゾウたちの前にある台の上には、ハーモニカが一つずつ置かれました。
ゾウ使いの人たちの合図で、ゾウたちは長い鼻で、ハーモニカをくるりと巻くようにして取り上げました。そして吹きはじめました。あまり曲になってはいませんし、けっして上手ともいえません。でも、ゾウたちは一生懸命に吹いています。
所長さんは「いいんだ、いいんだ。いまは、これでいいんだ。ゾウはとても利口な動物だし、音楽もわかる。そのうちにきっと、もっとじょうずに吹けるようになる」
といいました。
よく日、いよいよ新しいショウのはじまりの日です。さか立ちや一本脚立ちなどの芸、材木運びや二頭が牙も上手に使って材木を積み上げてゆく作業の実演、サッカーのボール蹴り、絵筆といろんな色の絵の具を使っての絵描きなどにも、満員のお客さんから、笑いと大きな拍手が起こります。
さあ、ショウの最後は、ゾウたちのハーモニカ合奏です。一列に並んだゾウたちは、ゾウ使いの人たちの合図でいっせいに吹きはじめました。頭をふりふり吹いているゾウもいます。お客さんたちは大喜びです。
演奏が終わりました。ゾウたちはそろって頭を下げ、お辞儀をして、しっぽと鼻をつないで、一列になってお客さんたちの前から退場します。大きな拍手です。
けれども、子ゾウのウタイ一頭だけが、そこに残りました。所長さんがマイクロフォンを持って進み出て、お客さんたちに「サワディー・クラップ。こんにちは」とあいさつをしました。そして、
「皆さまにゾウたちのハーモニカ合奏をお聴かせしましたのは、今日がはじめてです、じつは、もう一曲、われらが天才演奏家・ウタイの独奏をお聴かせします」
と子ゾウのウタイを紹介しました。
そして、ウタイが一頭だけで吹きはじめました。それは、サナンがなんべんも、吹いて聴かせてあげた、あの『星たちと愛』の一小節です。
「プープーププー、プープーププー」
一回、二回、三回と、ウタイは吹きはじめました。
客席がシーンと静まり返りました。ちゃんとメロディーになっているのです。ウタイが吹き終わると、一瞬、間をおいて、お客さんたちのとても大きな拍手と歓声がわき起こりました。お客さんたちは立ち上がって拍手をしています。
「やったね、ウタイ!」
突然、客席のすみからサナンが飛び出してきて、ウタイの鼻に抱きつきました。
みんな「あっ」と驚き、息をのみ、凍りついたように立ちつくしました。みんなは、サナンがゾウの長い鼻に巻かれたり、踏みつけられでもしたらたいへんだ、と思ったからです。でも、子ゾウのウタイは、おとなしくサナンを見下ろしながら、自分のザラザラとした長い鼻に顔を押しつけるようにして、うれし涙をうかべているサナンといっしょに、静かにそこに立っていました。
所長さんがもう一度、マイクロフォンを持って、「コップン・クラップ。皆さん、ありがとうございました。そして、サナン、どうもありがとう」といいました。
それから、お客さんたちに、サナンとウタイがはじめて出会ったときのことから、サナンが一日も欠かさずウタイを訪ねてきては、やさしく声をかけ、ハーモニカで音楽を聴かせてあげたことや、そのことから、今日のゾウのハーモニカ演奏を思いついたことなどを話しました。また、いちだんと大きな拍手が、サナンとウタイに贈られました。
やがて、子ゾウのウタイも、拍手に送られながら退場しました。そのときの歩き方はもう、前脚を痛そうにはしていませんでした。
◇◇◇◇◇◇◇
>
その日の夕ごはんのとき、お父さんが、
「よかったね。サナン。お前のやさしい心がウタイに通じたんだよ。サナンだから、できたんだよ」
といいました。お母さんも、ほほ笑みながら、小さくうなずきました。
サナンはその時、これまで一度も感じたことがなかったような、とても熱くて、力強いものが、自分の胸の中で、ぐんぐんと大きくふくらんでいるのを感じていました。
|