童話 バンヤンの木と三つの不思議



バンヤンの木と三つの不思議 作: 大和恵弘


お母さんは、十二月のある日、重い病気で息を引き取る前に、六歳になる一人息子のウクリットを枕元に呼び寄せていいました。「私は、もう長く生きられない。お前は、私が死んだら、コーラートにいる伯父さんを訪ねに行きなさい。伯父さんは亡くなったお父さんのお兄さんなのよ。お前のことはよく頼んであるから、心配はいらないからね。それから、この本を持っていきなさい。これはお父さんが亡くなる前に、『ウクリットが学校へ行くようになったら、読むようにいっておくれ』といって、残してくれたものなの。お釈迦さまの教えが書いてあるの。きっと読むのよ」
 そして、枕の下から、一冊の白い革の表紙の本を取り出して、ウクリットに手渡しました。ウクリットは泣きじゃくりながらうなづき、本を両手で胸に抱きしめました。


お母さんはそれから二日後に亡くなりました。お葬式を終えてすぐ、みなしごとになってしまったウクリットは、一人きりでさびしく新年を迎えました。そして、ある朝早く、近くのお寺にお参りをし、これまでお世話になった近所の人たちにもあいさつをすませてから、コーラートへ向けて出発することにしました。
 タイの東北部はイサーンとも呼ばれています。この地方は昔から、旱魃(かんばつ)にみまわれることが多く、ほかと比べて貧しい地方です。ウクリットの家は、東北部でもメコン川からさほど遠くない、北のほうのウドンターニーという町にありましたので、伯父さんが住んでいるコーラートへは、南へおよそ三〇〇キロメートルを行かねばなりません。コーラートというのは、ナコンラーチャシマという町の別名です。
 ウクリットはこの道のりを、歩いて行くことにしました。それは、コーラートまで、いろいろな町や村を見ながら行きたいと思ったからです。


◇◇◇◇◇◇◇


 コーラートまでは、一日に三〇キロメートルを歩いたとして一〇日間、毎日四〇キロメートルを歩いたとしても、伯父さんの家にたどり着くまでには八日間かかります。ウクリットは伯父さんに、出発の日から数えて一〇日目に着くという手紙を出してあります。
 お金は少ししかありません。食事は途中の道端に出ている露店などで、安い食べ物や果物を買って食べることにしました。手ぬぐいで着替えは一枚づつ。途中の小川で体を洗い、着替えて洗濯をし、手にした長い木の杖にかけて、乾かしながら歩くことにしました。
 ほかに持ち物といえば、白い革の表紙の本と、大きな厚手の木綿の布が一枚だけです。布は、それにくるまって寝るためです。一月は乾期なので雨は降りませんが、日中はせっし三〇度以上になる気温も、夜は二〇度以下にまで下がって、冷え込むのです。それらを白い大きな袋に詰めました。夜は、道端の民家の軒の下や、大きな木の下で、野宿することにしました。


 ウクリットは歩き始めました。初めのうちは元気よく歩きましたが、一〇キロメートルも歩きますと、少し疲れてきます。途中、何回も休みながら歩きました。こうして、一日に三〇キロメートルぐらいづつ、南へ向かって歩きました。
 八日間、南へ南へと歩き続けました。あたりがまた薄暗い朝早くに目を覚ますと、サフラン色の衣の僧侶たちが托鉢(たくはつ)に歩く姿を、何度も見かけました。
 托鉢とは、僧侶が修業のために、お経をとなえながら歩き、家の前に立って、食べ物やお金の施しを受けて回ることです。信心深いタイの人たちは、朝早く起きて戸を開け、食べ物を用意して、托鉢に来る僧侶を待ち受けています。
 昼間、道で行きかう人たちは、たまに刺繍の入ったきれいなサロン姿の人もいましたが、ほとんどは《モーホム》と呼ばれる藍色のシャツを着たお百姓さんたちや、そまつな作業衣で働く人たちでした。
 八日目の夕方、やっとコーラートまであと六〇キロメートルほどのところに来ました。このまま進めば、予定どおりあさってじゅうには、伯父さんの家にたどり着けます。
 九日目の朝、ウクリットはちょっと考えました。それは、ここまではどこにも寄り道をしないで歩いてきましたが、どうしても立ち寄ってみたいところが一ヵ所あったからです。
ウクリットは心を決めて、広い道をはずれ、東南のほうに向かって、細い道に入りました。それは、去年、お母さんから話を聞いたことがあるピマーイの遺跡へ行くためです。


◇◇◇◇◇◇◇


 現在のタイの国土は、十三世紀にタイ族最初の国としてスコータイが建設されるまでは、今のカンボジアの主要民族であるクメール族の支配下にありました。ピマーイには、一一世紀の終わりごろ、クメール族によって建てられ、《タイのアンコール・ワット》として知られている、タイ最大のヒンドゥー教の石造神殿遺跡があります。
 ピマーイには、午後、到着しました。さっそく神殿遺跡へ行きました。遺跡の中央には、白い砂岩で作られた、高さ二十八メートルの五層の塔がそびえ立っています。遺跡は、こどものウクリットの目にも、とても美しく、また、けがれなく尊く感じられました。建前の入り口や塔の上のほうにある彫刻もすばらしいと思いました。お母さんが生前、「大きくなったら、ぜひ一度、行ってみるといいわね」といったわけがよくわかったような気がして、来てほんとうによかったと思いました。


 寄り道は、ここピマーイだけです。明日じゅうには叔父さんの家に着かなければなりません。きょうのうちに、コーラートに向かってもう少し歩いておく必要があります。けれども、九日間も歩きづめでしたので、急に疲れが出てしまいました。
ウクリットはピマーイの遺跡を出てから、水辺に生えた一本の大きなバンヤンの木の根元で腰を下ろし、杖と袋を下に置き、太い幹に背をもたされて、ひと休みしました。もう、日はだいぶ西に傾きかけています。
バンヤンというのはインド原産の背の高い常緑樹で、ベンガル・ボダイジュとも呼ばれています。バンヤンは地上の高い枝からたくさんの木根(きこん)という根を下に伸ばし、それが地中に入るとだんだん太くなり、新しい幹になります。
ウクリットは袋から白い革の表紙の本を取り出しました。本にはタイ語の文字がぎっしりと書かれています。お母さんに三十二の母音(ぼいん)字と、四十二の子音(しいん)字は教えてもらいましたが、今、この本が読めるかどうか、とにかく読み始めてみようと、最初のページを開きました。けれども、とても眠くてたまらなくなってしまい、一行も読まないうちにもう、ウトウトとしてしまいました。


◇◇◇◇◇◇◇


ふと気がつくと、遠くからとても楽しそうな音楽が聞こえてきます。タイの木琴・ラナートやオーボエに似た笛・ピーナイの音です。輪になった籐(とう)の枠にたくさんの銅鑼(どら)をつけたコーン・ウォンや太鼓の音もしています。
甘い花の香りがただよってきたのであたりを見回すと、きれいなサロンを着て、肩からはサバイという長い帯のような布を下げた七~八歳の少女が、丸い木の器に赤や青や黄や白の花びらをいっぱい入れて、微笑んで立っていました。少女はウクリットに近づき、花びらを振りかけながら、ちょっといたずらっぽい目で笑いかけていいました。
「踊りもやっているわ。本なんか読んでいないで、いらっしゃいよ」
「え、きょうはこのあたりのお祭なの?」とウクリットはたずねました。
「ううん、ちがうわ。でも、ここでは毎日がお祭みたいなの。みんなで歌を歌ったり、踊りを踊ったり、ごちそうを食べたりして、とても楽しいのよ」
少女はそう答えました。
「毎日がお祭り?」
ウクリットはちょっと不思議に思いました。なぜかといえば、タイの東北部はもともと貧しい地方なので、だれでもそんなに毎日、歌ったり、踊ったり、ごちそうを食べたりはできないはずだからです。
ウクリットがなっとくいかない顔をしていると、少女は「さあ、いっしょにいらっしゃいよ。とても楽しいわよ。それに、今夜はうちに泊まって、休んでいきなさいよ」
と、しきりに手招きをします。
ウクリットは、そんなに楽しいものなら見てみたいと思いましたし、もう一年以上も、ごちそうなど食べたことがありませんでしたので、少女について行きたくなりました。でも、叔父さんのところには、明日じゅうに行く約束をしています。
「だめなんだ。行けないよ。ぼくは、明日じゅうに叔父さんのところへ行くって約束しているから」
と、ことわりました。
すると少女は、ほかに何人かの女の子たちを呼び寄せて、みんなでウクリットの両手をひいて、つれて行こうとしました。
「だめだ。ぼくは約束を守らなきゃいけないんだッ」
ウクリットは少し強い声でいい、少女たちの手をふりほどきました。少女たちはそれでもなお、もっとたくさんの女の子たちを呼んで、いっしょにつれて行こうとしました。
その時です。バンヤンの木の枝から何十本もの気根がスーッと地面にたれてきて、たちまち土の中に根をはり、太い幹になり、ウクリットと少女たちとの間に、柵を作ってしまいました。
ウクリットはびっくりして、立ちつくしました。やがて、われにかえると、少女たちの姿はもうどこにもなく、気根がめぐらした柵もありませんでした。
「夢を見ていたのだろうか?」

◇◇◇◇◇◇◇


ウクリットがしばらくぼんやりしていると、いつのまにか目の前に、顔に刀傷のある大男が立っていました。腰には大きな刀をさしています。そして、
「おい、小僧。なんの本を持ってるんだ?そいつをおれによこせ」
といいました。ウクリットは男の恐ろしい顔を見上げ、首を横にふりました。
「なに、いやなのか? いいから、黙ってよこせ」
大男はそういいながら、目をギラつかせ、じりっと近寄ろうとしました。
「これは、お父さんがぼくに残してくれた大切な本だ。だれにも渡すものかッ」
ウクリットは恐ろしさも忘れて、そう叫びました。
「ふん。そう聞くと、よけいに欲しくなるな。きっと、よほどいいことが書いてあるにちがいない。いいから、よこせ。よこさないと、お前をぶった切るぞ」
大男はそういいながら、なおもにじり寄ろうとします。
「ぼくは、この本をかならず読むって、お母さんと約束したんだ。だから、読んで、なにが書いてあるのかを知るまでは、だれにも渡すわけにはいかないんだッ」
ウクリットは、大男をにらみつけながら、本をしっかりとにぎりしめました。
「なにをッ、小僧め。さあ、よこせッ」
大男は腕を伸ばし、ウクリットから本をうばいとろうとします。
「いやだ。死んでも渡すものかッ」
「ほう、死んでもか……。よし、それなら、お前を殺してでも、うばい取ってやる」
大男は腰の大刀のさやをはらうと、鬼のようなぎょうそうで、大きくふりかぶって、切りつけてきました。
「あぶないッ。殺されるッ」
恐ろしさにウクリットは思わず目をつぶりました。
と、その時です。バンヤンの木の枝から、また、たくさんの気根がサーッと下に伸びてきて、ウクリットを隠すようにとり囲み、たちまち地面に根を下ろして幹となって、大男が近づけないようにしてしまいました。大男は大声でわめきましたが、その声も、急に吹いてきた嵐のような激しい風の音に、かき消されてしまいました。
しばらくすると、静けさが戻りました。恐る恐る見回すと、ウクリットをとり囲んだたくさんのバンヤンの幹はなく、大男の姿もありませんでした。また、夢を見ていたのでしょうか。

◇◇◇◇◇◇◇


ウクリットは、胸の動悸がおさまるまで、バンヤンの木の下にじっとしていました。それから、気をとり直して、
「だいぶ遅くなっちゃった。急いで行かなくちゃ」
と、袋を取り上げようとした時、自分の後ろに隠れるようにして、一羽のクジャクがいるのに気がつきました。
 「あれッ、なんでこんなところにクジャクがいるんだろう?」
ウクリットは、不思議に思って、クジャクを見つめました。それは雄のクジャクでした。雄クジャクは、頭と首と胸が輝くような青い色をしています。背中は茶色の横じまがある灰色です。体の長さは二メートル以上もあります。目玉のような紋(もん)がある、緑色のとても長い羽をいっぱいつけていて、それを扇のように広げた姿は、なんともいえない美しさです。
クジャクはウクリットを恐がるふうではなく、むしろ、ウクリットに体を寄せてきました。よく見ると、体をかたくして震え、なにかにおびえているようです。すぐ、そのわけがわかりました。
一人の男が荒々しい息を吐きながら走り寄ってきました。手には大きな丸木弓を持っています。顔じゅうひげだらけのその男は、
「こんなところにいたか。小僧、そこをどけッ。そのクジャクはおれが獲物にするんだ」
そういいながら、男は弓に鋭い鉄のやじりがついた矢をつがえました。そんな矢で射られたら、クジャクは死んでしまいます。「殺しちゃだめだッ。かわいそうじゃないかッ」
ウクリットは男の前に立ちはだかるようにして、そういいました。
男はニヤリと笑い、
「そんなことをいって、お前はそのクジャクを、誰かに売るつもりなんだろう。そうはさせないぞ。それはおれの獲物だ。さあ、そこをどけッ」
といって、弓でクジャクをねらおうとしてます。
「いやだッ。それに、ぼくはくじゃくを売ったりなんかするものか」
ウクリットは、大きな声でいいました。
雄のクジャクはたいへん美しいので、自分の家で飼うためにはほしがる人も多く、いい値段で売れます。また、家の中の装飾や、衣服や帽子のかざりとしても使えますので、長い羽一本づつでも売ることができます。でも、ウクリットはクジャクを売ったりすることなど考えてもいません。ただ、命を救いたいと思っているのです。
「ふん。そんなことをいったって、うそに決まっている。じゃあお前にたずねるが、それがクジャクじゃなくて、そこらにたくさんいるガチョウだったらどうする?それでも命を助けてやるのか?」
男はあざ笑うようにそういって、また、ウクリットの顔をにらみつけました。
「もちろんさ」
ウクリットはそう答えました。するとどうでしょう。かばっていたクジャクの姿が消えて、背中が茶色で、首から胸にかけて灰色のガチョウに変わってしまっています。
 それをみて男は
「アッハッハッハッハッ」
と大声で笑い、なおも弓のつるに矢をあてがい、ガチョウを胸に抱き上げました。
「生意気な小僧だ。さあ、ガチョウを放せ。さもないと、お前をそのガチョウごと射抜くぞッ」
男はそういうと、キリキリッと弓を引きしぼりました。でも、ウクリットはガチョウを放しません。男は顔を真っ赤にして怒り、
「強情な小僧め。よーし、それならガチョウごと射殺してやるッ」
と、弓を満月のように力いっぱい引きしぼって、矢を放とうとしました。
その時またもや、バンヤンの気根がサーっと下りてきました。けれども男は、ひるむ様子も見せず、
「エイッ」
とばかりに、矢を放ちました。ウクリットは、
「今度こそ、殺される」
と覚悟して、目を閉じました。
しかし、矢は、一瞬のうちに気根が地に根を生やし、ウクリットを守るように太く上に伸びたバンヤンの幹に、グサリと突き刺さりました。
しばらくして、あたりに物音一つしない静けさがもどりました。ウクリットがそっと目を開けると、抱いていたのは、白い革の表紙の本でした。そばには一本の大きなバンヤンの木があるだけで、矢からウクリットを守ってくれた幹もありません。

◇◇◇◇◇◇◇


不思議な一夜があけました。気がつくと、もうすっかり明るくなっています。ウクリットは本を袋にしまって肩にかけ、杖を持って、コーラートに向かって、急ぎ足で歩き始めました。今からですと、伯父さんの家に着くのは、夜中になってしまうでしょう。
歩き出してしばらくすると、
「坊や、どこまで行くのかね?」
という声がしました。声のほうを振り向くと、真っ白い髪を長く伸ばし、白いシャツと白いサロン姿のやせたお爺さんが、稲のわらを積んだ荷車を牛に引かせながら、にこやかに笑いかけていました。
「なに、コーラートへ行くのかね。それはたいへんだな。わしもその方向へ行くから、よかったら、いっしょにこれに乗って行きなさい。
と親切にいってくれました。
荷車に乗せてもらったウクリットは、長い旅の疲れが一度に出てしまったのか、ゴトゴトとゆれる荷車の稲のわらの上で、夢さえ見ることもなく、ぐっすりと眠り込んでしまいました。
なん時間乗っていたのでしょうか、荷車が止まり、「坊や、ここかね?」
とお爺さんにいわれて目をさますと、そこはもう、伯父さんの家の前でした。
荷車を降りて、すっかり暗くなった空を見上げると、満月とたくさんのきらめく星たちが、ウクリットをやさしく照らし始めていました。お爺さんの荷車は、だんだん小さくなって遠ざかり、まるで夜空に吸い込まれるように、消えて行きました。

◇◇◇◇◇◇◇


コーラートに来てから一〇年近くがたちました。ウクリットは一五歳のりりしい少年に育ちました。将来は、お父さんがやろうとしていたように、東北地方に、農作物を育てるための水路を作って田畑に必要な水を引く、灌漑(かんがい)工事の仕事をしたいと思っています。中学を卒業したら、そのための勉強をするつもりです。
それからウクリットには、もう一つ願いがありました。それは、ぜひもう一度ピマーイを訪ね、あの三つの不思議を見たバンヤンの木の下に行ってみたいということです。
学校の休みを利用して、ピマーイを訪ねることにしました。伯父さんの許しも得ました。ウクリットは、ウドンターニーからコーラートに来た時のように、本と着替えと木綿の布を袋に入れて肩にかつぎ、歩いて出発しました。
白い砂岩と紅土(こうど)で造られた神殿遺跡は、以前と変わることなく、美しい姿で、静かに一〇〇〇年の歴史を語りかけていました。ウクリットはゆっくりと神殿を見学しました。それから、三つの不思議を見た、二キロメートルほど北のバンヤンの木があるところに向かいました。
バンヤンの木はありました。けれどもそれは、ウクリットが憶えているような、たった一本の木ではありません。何百本ものバンヤンの木が枝をからませ合いながら林となって広がり、枝々からはたくさんの気根がたれ下がり、鬱蒼(うっそう)と茂っています。
ウクリットは不思議に思って、木陰で休んでいた一人の長い白髪のお爺さんに、ここにはいつから、こんなにたくさんのバンヤンの木があるのか、たずねてみました。洗いさらした白いシャツとサロン姿のお爺さんは、
「うーん、いつごろからなのかよくは知らんなぁ。ただ、わしが子どものころにも、ここにバンヤンの木はあったな。だが、こんなにたくさんはなかった。聞いた話では、昔、そのバンヤンの木はたった一本しかなかったそうだ。そのバンヤンの木が大きく育って枝を横に伸ばし、枝からはたくさんの気根が垂れ下がって地面に向かい、それが土に根をはってまた幹となり、また枝を広げ、その枝からまた「気根が下がって……。そうなんじゃ。それを何度も何度もくり返して、今ではこんなにたくさんのバンヤンの木がある林になったというわけじゃ」
ウクリットがこの前ここに来てから、まだ一〇年もたっていません。その間に一本のバンヤンの木がこんなに広い林になるはずはありません。ウクリットが見た三つの不思議は、やはり夢だったのでしょうか。

◇◇◇◇◇◇◇


ウクリットは、林の中ほどにある、いちばん太いバンヤンの木に近寄りました。見上げると、
「あッ、あった」
幹の、ウクリットが背伸びしてやっと手が届くくらいの高さに、五センチメートルくらいの古い傷跡がありました。よく見ると、そこには小さな穴が開いています。
ウクリットは思い出しました。ひげだらけの男がガチョウを抱いたウクリットに向かって矢を放ち、それを一瞬のうちに伸びたバンヤンの木の幹が受け止めて、ウクリットを守ってくれたことを……。
「あれはほんとうに起こったことだったのかもしれない」
ウクリットはそう思いました。
ウクリットはその幹に向かって合掌し、深く頭を下げました。そして、向かい側の木の根元に腰を下ろし、袋から本を取り出して読み始めました。真っ白だった表紙は手垢ですっかり汚れてしまっています。
読み始めてすぐ、本を閉じました。なぜなら、文字を読まなくても、ウクリットはもうその本に書かれていることは、何百回も読んだので、すっかり覚えてしまっていたからです。ウクリットは目を閉じて、お釈迦さまの教えを、小さな声で暗唱しました。
そんなウクリットの姿を、さっきの、長い真っ白い髪のお爺さんが、少し離れたところから、ほほえんで見つめていました。


ピマーイには今も、サイ・ンガーム公園と呼ばれている公園があります。ここにはおよそ一四〇〇平方メートルの広さのバンヤンの林があり、すずしい木陰をつくって、町の人たちのいこいの場となっています。でも、昔ここには、バンヤンの木がたった一本生えていただけだったのです。

〈おわり〉

2008年02月12日
 

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